Review by Ichirota

ティノ・セーガルの作品には全体を通じて「配慮」が見受けられる。展示を自分の脳の一室と見立て、そこに関係する細胞はもちろん、それが感化する他の細胞へすら気を回している様な感じだ。

別の言い方をすれば、緻密な計算の上に成り立っている。この空間に踏み入った人々を、「なぜ、そこにいるのか」から始まり、ギャラリーそのものの存在意義、作品を経験した時の反応、細かな心の動き、そういったことを踏まえて鑑賞者の思考を誘導している感がある。鑑賞者の思考を



誘導することは、作品に関する一切を文面や図として残さないセーガルにとって不可欠なものかもしれないが、その徹底振りには恐れ入る。(電話で展示のことをギャラリーに尋ねても、応えてもらえない。「アーティストの意向で教えられない」と言われるだけだ。)

このICAでは二つの作品が発表されている。それらは大変分かり易いものであり、ふたつの作品の対照付けも分かり易い。「静」と「動」。

一階の展示室では、一人の人間が床に寝て、ゆっくりと蠢いている。それのみ。「静」。目の前で誰かが何かをしている。始めのうちはソレを「観」ているのだが、しばらくすると退屈で「見」るだけに留まる。ふと自分の耳に注意が向く。そこには、衣擦れの音、呼吸、後ろから聞こえる受付の声、足音、なんてことはない日常にあふれる音が、特別な音となって響く。その異様に呼応し、哲学っぽい考察が重さを持たずに首をもたげてくる。この人は何をしているんだろう?何を考えているんだろう?この人は私を意識しているのか?私はなんだろう?学問としての哲学ほどの深さは、ギャラリー内に立っている状態では望めないだろう。しかし、類似する疑問を喚起させる。

二階では、5人の人間がパフォーマンスをしている。「動」きがあり、音もあり、時に鑑賞者の笑い声すら混ざる。訪れた者は作品を経験し、同時にその一部となる。部屋に足を踏み入れ、5人が言葉を発し始めると、突如強い違和感に襲われる。自分の出番ではないのに演劇の舞台に上がってしまったかの様な。「討論の対象となるのが、この作品の目的」と彼らは、そこにいないセーガルの音頭にあわせて唱和する。そして、5人の注意は鑑賞者に集中する。その場に自分ひとりだった場合、それは皮膚のすぐ外側まで迫ってくる。始めに感じた違和感と相まって、逃げ出さなくてはいけない様な強迫観念に包まれる。そのあと、ディ

スカッションが始まると、その張り詰めた空気は散在し、場は一転、和やかさすら顔を覗かせる。

二つの疎外感を強く意識させる作品。片方では、(当たり前のことだが)同化し得ないふたつの人間としての相手からの疎外感。もう一方は、少しわかりやすく、集団からの疎外感。それらが、それぞれに鑑賞者に思い起こさせるものは様々だろうが、大まかな道標はセーガルによって与えられている。無理強いではなく、それとなく誘導するそのさじ加減は絶妙だ。

振付師の顔も持つセーガルだからかもしれないが、良くも悪くも舞台芸術を想起させる二つの作品。それらをビジュアルアートの中で発表する。それはただ単純に、メディアの垣根を越え、なんでもありのアートに入っているという様子ではない。興味があることの内で、アートに関わりのあるところを掬い取っている。そんな印象を受ける。懐の深そうな作家である。

 

ティノ・セーガル解体新書 by Toyoko Ito

若干27歳にして、アート界に未だ残る常識を数々の非常識で塗りつぶしているティノ・セーガル。美術界からの注目度も上々で、03年のフリーズ・アートフェアではモーリツィオ・カテランのロング・ギャラリーで紹介され、04年のバーゼル・アートフェアでは若手を対象とするバロワーズ賞を受賞。また、この6月から始まるヴェネツィア・ビエンナーレにも参加が決定している。おまけに、いま個展開催中のICAにもだいぶ見込まれた様で、2007年までにあと二度彼の展示が計画されている。ここではそこまで期待を集めているセーガルの表現世界について少し派手に解体してみたいと思う。

一階の作品
『Instead of allowing some things to rise up to your face dancing bruce and dan and other things』(2000)

展示室の片隅に人がひとり横たわっているだけのこの作品は、2000年に制作されたセーガルの作品第一号。タイトルからするとブルース・ナウマンやダン・グレアムら60〜70年代のパフォーマンス作品に対するコメントと受け止められるようだ。確かに、床にごろりと転がった存在感のある人間の姿は、パフォーマンス映像『Wall Floor Positions』(68)の中で自らの体をスカルプチャーと見立て様々なポーズを取ったナウマンの姿にどこか通じるものがある(展示の様子は上のレビューを参照のこと)。

階の作品
『This objective of that object』(2004)

こちらはセーガルの最新作で、以下は筆者の体験談。会場に入ると、パフォーマーが右図A, B, C, Dの位置に鑑賞者(黒丸)に背を向けて立ち、「ハーハー」肩で呼吸をしている。暫くすると、入り口Eに廊下でスタンバイしていた最後のパフォーマーが立ち、鑑賞者はパフォーマー5人にすっぽりと囲まれた形になる。 

荒々しい呼吸が言葉に変わる。全員で「討論の対象となるのが、この作品の目的」と唱和しながら、次第に声が大きくなっていく。すると突然パフォーマーの声が掠れ出し、みな一斉に床に倒れてしまう。1分。2分。3分…。沈黙が続く。彼らの真横に立とうが、展示室の中を歩るき回ろうが、一向に動く様子がない。

沈黙を破るべく、筆者が「居心地が悪い!」と言ってみる。

するとパフォーマーBが、「『居心地が悪い』とコメントが出ました!」と叫びながら飛び上がりモノローグを展開。その後E、C、D、Aと順に『居心地が悪い』をテーマに意見を展開し、最後に『もう他に意見はないですか?』と確認。黙っていると、5人が展示室内を狂ったように飛び跳ねながら展示室の隅に退散。パフォーマーの1人が近寄ってきて次の鑑賞者が来るまでこの作品について一緒に話した。

解体1:アーティストは舞台監督?
セーガルの作品全般に共通しているのが、人を使うこと。現代アート系のパフォーマンスというと、作家が自らの体を媒体として使うというのが60年代以来定着しているが、振付師でもある彼の場合、その役割は監督・演出家に留まり自ら演じることはしない。ちなみに二階でパフォーマンスに参加していた何人かに聞いてみたところ、彼らはみな素人さん。アーティストでも俳優の卵でも何でもないという。年齢層は子供を使っていたフリーズの時とは違って今回は20代〜40代くらいの男女。では、これが演じられている間、作者自身は一体どこにいるのでしょうか?答えは自分の国、ドイツに帰国済みとのこと。

解体2:毎回変わるパフォーマンス
こちらも同じく二階の参加者から聞いたこと。彼らはパフォーマンスの中でまるで舞台俳優がセリフを読み上げるような語りっぷりで議論を展開していたが、その内容は即興で拵えたものとのことで、セーガルによるシナリオは存在しない。議題は鑑賞者からのコメントによって毎回変わり、今回筆者は「居心地が悪い」などと悪態を吐いてしまったが、その前に訪れた時には、赤ん坊の発した「DA」という音から「ダダイズム」という言葉が生れたという議論が展開されていた。では、もし誰も何も言わなかったら?聞いた話によると、そのまま振り出しに戻るとか。フィードバックがなくてもちゃんと完結するように作られているようだ。

解体3:誘ってるの?避けてるの?
今回の二階の展示ほど、現代アートでのお決まり文句“参加”を意識させられた作品はない。まず、パフォーマーの「討論の対象となるのが、この作品の目的」という言葉によって、 “何か言わなければいけないのだろうか”という疑問と焦りが鑑賞者の心に生じ、この段階で既にパフォーマンスに捕まってしまう。あまりにもの息苦しさに退散しようかとも思ったが、退路がパフォーマーEによって巧みに塞がれてしまっている(パフォーマーとの距離がこれだけ近いとシカトして帰るのも悪い気がする)。心の葛藤を押さえ言葉を発してみると、パフォーマーがそれを受け継いでくれて対話が成立。“参加した”という充足感が身体に漲る……。まあこう書くと簡単に参加できるような印象を与えてしまうかもしれないが、ハードルは割と高い。例えば、パフォーマーは鑑賞者にずっと背を向けるているし、顔を見ようとすると逃げてしまう。まるでコミュニケーションを拒むかのようにただ只管逃げまくる。声が討論への参加を促す一方で、動きがこれを拒絶するという相反する要素を持った作品なのだ。

解体4:人間だけどスカルプチャー?
これは一階の作品に言えることで、セーガルの作品は人を使っていながらも限りなく「スカルプチャー」的に感じられる。パフォーマンスというと、ストーリーが有ろうが無かろうが大抵始まりがあって終わりがあるものだが、この作品の場合、ギャラリーの開館時間中途切れなくずっと“展示”されている(パフォーマーは二人いて4時間で交代するそうだ)。この常設っぽいプレゼンの仕方にホワイト・キューブという場所が加わり、パフォーマンスがより一層オブジェ化して見えてくる。一応動いているので、人間によるキネティックなスカルプチャーとでも呼んでおこう。

解体5:究極のミニマリスト?
セーガルの特徴のひとつが、一般的に“モノ”と呼べるものを使わないこと。人と、人が発する声や音や動きといった要素以外、展示室にはなにも存在しない。よってパフォーマーが帰ったあと展示室は毎日空っぽになる。実はこの超ミニマルなアプローチによって筆者は以前一度彼の作品を見損なっている。昨年のバーゼル・アートフェアで若手を紹介する「アート・ステートメント」のコーナーを歩いていると、空っぽのブースがひとつあった。気になったものの、「どうせ展示品が間に合わなかったのだろう」くらいにしか思わず素通りしてしまったが、後でセーガルのブースだったと知った。一本取られました。

解体6:「モノ」アレルギー
セーガルのミニマリストぶりはこの美術用語のもつ意味の範囲を超え、物理的な存在を徹底して拒む「モノ」アレルギー的な姿勢にまで至っている。例えば、パフォーマーたちへの指示。ふつう、参加者の数が増えて内容が複雑になればなるほど書面で指示を伝える方が合理的だと思うが、彼は口頭のみでそれを行う。もちろんこれには振付師たる彼のバックグラウンドが大なり小なり影響していることは確かだが、それとは別に"モノ"に繋がる要素を残したくないという動機もあるようだ。これと同じ理由から彼は作品売買時にも、証明書や領収書などの書類による取引を一切拒んでいるらしい。もちろん画像も例外ではなく、ICAのプレス担当に問い合わせてみたところ案の定、「ティノの作品の性質とイデオロギーに反するため今回はありません」と返事が来た。


(2005年2月22日掲載)

Tino Sehgal
050117-050303
ICA (Institute of Contemporay Art)


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