伊東豊子(T): これまでにやってきたことを簡単に教えてもらえますか?
 

スティーブン・イーストウッド(S): 約十年間に渡って、映画とヴィデオの領域でナラティヴ構成を試しながら制作をしてきました。ここ数年はドキュメンタリーも何本か撮り、いまはこの両分野を組み合わせてフィクションと事実との関係や、映画とドキュメンタリー・ナラティヴとの境界線を探ってみているところです。
 
 
 
T: どういう理由からそういう分野に関心をもつようになったのでしょうか?

 
 
S: 動画はいまでは取り消せないほど僕達の意識に深く浸透してしまったと思いますが、僕はそんな動画に対する観る側の受け止め方を限界にまでもっていくことに興味があるんです。僕にとって新しい可能性は、それが意図的であれどうであれ、映画内の物語がぐらついたり崩れたりする時に生れるんです。物語が崩壊してドキュメンタリーが期待を裏切った振る舞いをみせ、鑑賞者である僕達が混乱を感じるときに魅力を感じるんです。
 
 
T: そもそも映画作りにはどのような経緯で興味をもつようになったのですか?

 
   
S: 六歳の時に『スター・ウォーズ』を観て、十一歳のクリスマスにスーパーエイト8mmカメラを貰い、十六歳の時にNFTでタルコフスキーの『サクリファイス』を観ました。それ後アート・ファンデーションコースを取っているときに、絵画とストーリー・ライティングとがひとつになって、実験的な映画作りの方へと自然に変わっていきました。
 
 
T: 影響を受けた映画制作者やアーティストというと?

 
   
S: ご想像通り、キートン、パウエル/プレスバーガー、ヒッチコック、ゴダール、ローグ、タルコフスキー、アントニオーニ、カサヴェット、ヘルツォーク、リンチなどです。もっと最近では、キアロスタミやソロンズも。前衛系だったら、ブラケージ、ヒル(ギャリーとトニーの両方)、マイケル、コッティングなど。
 

 

 Steven Eastwood, Of Camera, 2003
 
  
T: 制作で一番重視していることは?
 

 
S: 睡眠。できるだけ正しいやり方で、誤りと思われる印象を生むこと。

  
T: ブリストルの短編映画際「Brief Encounter」で上映された新作「オブ・カメラ」について伺いたいのですが?
 


S: 「オブ・カメラ」では同じ空間に一緒にいる二人の人間が取る、最終的に破局にたどり着いてしまう試みが追求されています。二人の状況は女性がヴィデオ上に存在し男性がセルロイドフィルム上に存在するという技術的な違いによって煽られています。二人がお互いの不和と、自分達が撮影されていて自分達を見ている観客がいるということに気づくに従って、出来事が物語の時間軸からはずれあべこべになってゆきます。つまりこの映画は恐怖に満ちたノワール的な状況、つまり自分が映画のフレーム内に存在する物語上の人物であり、他人のコントロールの下にあることを悟ってゆく、そういう状況を描いた作品なんです。そこではヴィデオと映画の異なる質感と特徴が、人間の異なる性質を表す比喩になっているのです。動画の性質と違いが試されているのです。

映画を語るときに僕達はよく「diegetic space」という映画内の論理空間のことを話します。この理論空間は映画の基本であるショット/リバース・ショットに深く関連するもので、リバース・ショットの際に第四の壁(カメラの位置)が存在することを理論上受け入れています。ところが、実際のショット/リバース・ショットではこの理論は無視され、リバース・ショットにはカメラは存在せず鑑賞者もそれを当然のように受け止めています。つまりどう言うことかというと、僕達がいま見たシーンを撮るにはカメラが存在しなくてはいけないと理論上認めながらも、フレームからカメラが消失していても僕達は驚かないのです。つまり観客である僕達がカメラそのものになり、このようにして映画上の論理プロセスと観客の意識が融合されてしまったわけなのです。しかし、もしこのプロセスが崩壊するならば(例えばフレームの中にブームマイクが現れてしまったり、ナラティヴに途切れが生じたりすることによって)、この融合も失われてしまうわけです。

 

  
T: この作品は「“演劇”という概念を広げる試み」と説明されていますが、この点をもう少し詳しく教えていただけますか?

 
 
S: ゴダールはかつて、映画制作とは最終的にいつアクションと言っていつカットと言うかの判断だと言ったことがあります。僕が興味をもっているのはそういう映画制作という舞台であり、映画撮影の現場でみられる演劇的な要素と日常のなかでみられる演劇的な要素との関係なんです。だから役者として指導を受けていない普通の人を役者と並べてスクリーン上で見るのが好きなんですね。(ヘルツォークの映画におけるブルーノ・Sみたいに)。
 
 
T: 映画を製作する一方で、ライブイベントを企画したりフィルム・クラブ「OMSK」を立ち上げたりもしているようですが、「OMSK」について教えてもらえますか?
 

S: 「OMSK」は動画、サウンド、ライブ・アート、ビジュアル・アートの分野で活動しているアーティスト達の集団で、この範囲内であれば分野はどんな組み合わせでも構いません。制作者が進行中の作品を発表できるように工夫しながら、その場所に合ったサイト・スペシフィックなイベントを企画しています。拠点としているのはロンドン東部ですが海外ツアーも行っています。計画通りにいくことはありませんが、それでいて楽しめる場です。
 

 

 Steven Eastwood, The End, 2002
 
 
T: マイナス・ワンではどんな作品を上映する予定ですか?

 
 
S: 自己言及的なフィルム三部作のなかの最初の二作、「I Make Things Happen」と「The End」を発表します。両方ともデジタルヴィデオで撮ったシングルスクリーン映像です。僕は普段、ギャラリーでは展示しないので、一体どういう風に受け止められるのかが興味深いところです。
 
 
T: その二作についてもう少し詳しく教えてもらえますか?
 

S: 僕にとっては両方とも、映画上の物語と映画制作との間に存在しうる空間を語るものなのです(例えば映画上の論理空間(diegesis)と、それの現実である撮影現場との間みたいな)。これらの映画ではキャラクターはそれぞれ、二つの世界の間に挟まれたこの存在しうる空間にいます。映画の登場人物として彼らにできる事と、観客または映画制作者としての僕達にできる事、この両者が交わる微妙な接点に存在するのが彼らであって、それによって彼らは自分達が流れる映画の構造について語ることができるのです。

「The End」で僕がやりたかったことは、登場人物のアヴァが何時間も、それこそ永遠に「The End」と書かれた表示の前に座り込んでいるを見せられて、観客が席を立ち映画上の物語からも退場してしまうというようなことなんです。「I Make Things Happen」でやりたかったことは、理想としては、登場人物のジョーがどうにかしてストーリーから抜け出してしまい(ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』にやや似ていますが)、彼女の命令ひとつで物語が変わってしまうという展開です。つまりこれらの映画では、技術的に映画に可能なこと、物語として映画に可能なこと、映画の外の現実の世界で可能なこと、この三つの点が興味深い形で融合してしまっているのです。

 
 
T: 地下鉄の駅という展示場所によって作品の見え方が変わると思いますか?
 

S: 建物の特長によってさまざまな解釈が可能になるかと思います。でも、アート・ギャラリーでヴィデオやシングル・スクリーン作品を展示する場合には、みんなせいぜい20分から30分くらいしか付き合ってくれないという問題がありますよね。
 
 
T: ギャラリーだけを対象に制作している映画制作者もいますが、ギャラリー環境で展示することについてはどう感じられますか?
 

S: それを話はじめたら止まらなくなるのでここでは控えます。この国では商業映画とギャラリー・アーティストらが制作する映像作品が区別されていますが、いま一番魅力的と思われる映画作りは、この両極の間またはその圏外で起こっているように感じます。僕には実験的なものを作っている映画制作者たちはいま、資金援助を受けたり上映場所を見つけたりするために、アーティストとして生まれ変わらざるを得ない状況に置かれているように思えます。僕自身は選良的で浄化された白壁のギャラリー空間(ホワイト・キューブ)は好みませんが、そういう空間がベストの結果をもたらす作品があることは認めています。スペインやフランスなんかの近代美術館に行くと、マルセル・ブルータースの映像ループの隣りの部屋でフェリーニの映画が上映されていたり、ひとつのスクリーン上にナラティヴ系の国際映画が同時に上映されていることなんかもありますよね。
 

 

 Steven Eastwood, I Make Things Happen, 2001
 
 
T: いま関心をもっているテーマやエリアについて教えてください。
 

S: フラッシュ・モブ。ボルヘス。ドゥルーズと空間であれば何でも。境界線をわざと越えること。基本的には「誤った映画」を作ること。
 
 
T: 今後の予定を教えてください。
 

S: 英国の南部でレジデンシーをしたいと思っています。そこにある小さな町と住民たちに応えながら、ドキュメンタリー映画が普通はやらないことを全部取り入れて、例えば空想シーンのシークエンスとか人が考えているシーンとか、キー・ライティングとか相応しくないサウンドのキューイングやスコアリングなんも取り入れて、より拡張したドキュメンタリーを作りたいと思っています。

(取材&翻訳:伊東豊子、2004年1月)

 
 

スティーブン・イーストウッド
映画制作者、ロンドン在住
ICA、BAFTA、エジンバラ国際映画祭、アップリンク・ファクトリー(東京)、アンソロジー・フィルム・アーカイヴ(NY)をはじめ国内外のアートシネマ、ギャラリー、国際映画祭で作品を発表。制作の傍ら、大学で非常勤講師を勤め(映画理論、動画などが専門)、アーティスト集団「OMSK」の発起人としてライブイベントも多数企画している。現在はサリー美術・デザイン研究所にてリサーチ・プロジェクト「Cinema into the Real」(Mphil/PhD)に取り組んでいる。


作品掲載サイト:
Those Who Are Jesus
Of Camera



開催場所:

Aldwych Underground Station
The Strand
London WC2B

開催期間:
プライベート・ビュー
30 January 2004, 18:00 - 20:00

展覧会:Minus One
28 - 29 January 2004, 14:00 - 20:00
30 January 2004, 14:00 - 18:00
入場無料

チャリティー・パーティー:Underground Party
31 January 2004, 19:30から
要入場券(前売りのみ、10GBP)

入場券からの収益は児童チャリティーWellChildに寄付される
詳細についてはwww.minusone.org.uk

 

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