写真シリーズ「Liminal Portraits」を、先月ロンドンのローズ+マン・ギャラリーで発表したメラニー・モンショウ(Melanie Manchot)。人間の体とそれが鑑賞者の心に呼び起こす感情、体と環境の相互関係を探求している彼女。一見、淡白で単純な構図の写真だが、そこには私たちの既成概念を覆す激しく挑戦的な空気が感じられる。彼女の制作と動機について聞いてみました。

メラニーさんはロンドンのシティ・ユニバーシティで芸術教育を、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)で写真を学ばれているようですが、まずはアーティストになることになった経緯を教えていただけますか?

アートへはかなり理論寄りの方向から入りました。哲学や文化理論、美術史などの学科に関心がありましたので。制作の方へは、その後二ューヨークに住んでいた1989年から'90年に掛けて、徐々に引き込まれていきました。ロンドンに来た時にはすでにアーティストとして活動したいという自覚があり、写真を使ったイメージに特に夢中で、アーティストとして自分の考えを表現したいと切実に思っていました。なぜ写真なのかと言うと、それ独自の有用性が色々とあるなかでも、写真には肉体的または精神的な親近感を扱うだけの力があるため、私の表現に欠かせない媒体の一つとなっています。

大学での勉強が作品にどのような影響をもたらしていると思われますか?

RCAが私に与えてくれたものは、時間と場所と自由に加えて、私の芸術概念や考えを伸ばしてくれる議論のできる環境でした。正しい環境、つまり、リスクを取れて間違いを犯せるのと同時に作品が発展するような前向きの議論ができる環境、そんな環境との出会いが若いアーティストには重要だと思うのです。RCAのような環境では、美術作家としてスタートを切るのに役立つ人や機関を教えてくれたり、人に興味を持ってもらう絶好の場である卒業展もあります。同じような成長過程にいる他の作家との接触は後々まで影響がありますので、それもこういう環境が与えてくれる貴重な側面の一つだと思います。意見の交換や議論はとても重要で、私の場合、今でも続いています。

これまでに影響を受けたアーティストを教えてください?

私にとって重要なアーティストは常にいますが、それが絶えず変わったり増えたりしているために簡潔に答えるのは難しいですね。美術作家としてまだ駆け出しの頃に、最初に強い影響を受けたのがシンディ・シャーマンでした。彼女の「Untitled Film Still」シリーズを観てアーティストになろうと決心をしたくらい、彼女の作品は私にとって重要でした。写真でやっていこうと確信させてくれたのもこのシリーズでした。私にとってはこの作品は今でも影響力が強く、イメージ作りに対するパフォーマンス的なアプローチや女性像に対する批評という点でも斬新さを感じます。私がインスピレーションを感じてきた作家は次の通りで、だいたいが写真、ヴィデオ、パフォーマンス、フィルムの分野に入りがちです。

●シンディ・シャーマン、ダイアン・アーバス、アウグスト・サンダー、フィリップ・ロルカ・ディコルシア(特に最近の「Head」シリーズ)、シャロン・ロックハート
●ソフィー・カル、エレノア・アンティン、マリーナ・アブラモヴィッチ
●ブルース・ナウマン、ヴィト・アコンチ、エイヤ=リーサ・アハティラ

その他にも、ルネサンスやドイツのロマン派など「昔」の絵画もたくさん観ますし、母と一緒に制作した「Liminal Portrait」では特に参考になりました。

「Liminal Projects」は先月ロンドンで発表された作品ですよね。これまでの作品同様このシリーズも女性のヌード写真となっていますが、モデルはメラニーさんのお母さんだそうですね。なぜお母さんをモデルにすることにしたのですか?

母の写真は1995年から2000年にかけて継続的に撮りました。以前に女性らしさを表すイメージや、一般的に受け入れられている美の概念についての評論を研究したことがあり、このシリーズはそこからスタートしました。人生を生き抜いて老いてしまった女性、それによって美のスタンダードからはみ出し、視覚的に取り残されてしまった女性と一緒に仕事がしたかったのです。考えを練っていくうちに、モデルを雇ったのでは覗き見趣味的になってしまうように感じ、一般的な意味でのモデルではだめだと分かってきました。そういった理由から、このプロジェクトにふさわしい人は母しかいないと悟ったのです。母親と一緒に制作することによって、報酬や商業的な取引のうえに成り立ったものではなく、信頼や尊敬、協力といった観念に基づいた作品に仕上がりました。

 
Melanie Manchot, The London Eye I (Liminal Portraits), 2000
Courtesy: Rhodes + Mann Gallery, London

高齢女性のヌード写真は決して一般的ではないと思いますが、モデルになって欲しいと頼んだときのお母さんの反応はいかがしたか?

関係がとても近いので、頼むのは難しくありませんでした。暫く考えた後で、お互い作品についてどう感じるのか、やってみて様子を見てみようかと言ってくれました。プロジェクトが進むにつれて彼女の反応も変化し、イメージ作りにも徐々に積極的になり共同制作しているような感じになりましたし、この作品作りにもだんだん誇りを持ってくれるようになりました。私は母の裸体は、私達が囚われている問題を如実に語っていると思うのです。肉体美やイメージ優先の文化、肉体をコントロールしたい欲望や、歳をとることに対する恐怖など、私達が取りつかれている問題を指摘していると思うのです。老化はますます問題視されるようになってきていて、単に歳をとるプロセスとしてではもはや片付けられません。

ヌードはメラニーさんの作品に共通してみられる特徴の一つですが、どういう意味で重要なのでしょうか?

私は人間の裸体というのは、私たちにとってとても重要な様々な心理的問題を浮き彫りにしていると思うのです。服が提供する表面、マスク、ペルソナ(persona)、記号(sign)といったものを剥がすと、そこには無防備であるとともに威嚇的な裸体があります。私の作品の多くは、その裸体に直面した時に私達が抱く複雑な感情、つまり、嬉しさや羞恥心、楽しかったり照れ臭かったり、あるいは無関心といった様々な感情を探ろうとしているのです。

何点かはロンドンで撮影されたようですが、撮影場所には何か深い意味があるのでしょうか?

撮影場所はすべて母にとって意味のある場所です。例えば、長い間住んでいた場所とか、馴染み深いところとか。その点で最も関係が薄いのがロンドンとロンドン・アイの前で撮影した写真で、これは私がここに住んでいるという理由だけで選びました。

ロンドン・アイみたいな人通りの多い観光地で撮影したにもかかわらず、お母さん以外には誰も写っていませんし、どうかすると宙に浮かんでいるように見える写真もあるのですが、どういう風に撮影されたのですか?

建物の中で撮影しました。それもたいていの場合、大きな窓やバルコニーやドアの前で撮りました。でも写真に操作は一切加えていません。デジタル処理も一切していませんので、まったくの純粋でストレートな写真です。デジタル操作で作ったのではこの作品の意味が消えてしまうため、私にとってはこの区別は重要なのです。

この作品でも裸体と風景の組み合わせというメラニーさんの作品に共通している特徴が見られますけれど、どういう動機から屋外で撮影されているのですか?

私は私的な体と公的な撮影環境の境界線に関心を持っています。公共の場では、社交のプロセスを通じて取り入れられた、コード化された社会的振舞いというのが無数に存在します。だから、これらの撮影場所を使った目的は、環境のなかに対象を置くことにあって、必ずしもランドスケープというジャンルや分類を検証するためのものではありません。多くの場合この作品の意味は、慎重に選ばれた場所と肉体との間の緊張感を経て前面へと浮き上ってくるのです。


Melanie Manchot, With Blue Clouds and Laughter (Liminal Portraits), 1999
Courtesy: Rhodes + Mann Gallery, London

「Liminal Portrait」では被写体は一人ですが、他の作品ではカップルが多いですよね。それもキスなどの肌と肌との接触を見せているようなものが?

私の作品はその多くが、肉体的または精神的な親近感という概念を取り上げています。心理学を含む研究から来ているせいか、人間の感情や動機、接触、衝動、欲望などの探求にずっと夢中になっています。

最近のシリーズ「Gesture of Demarcation」(冒頭写真)では、その接触が題材の一つとなっているようですが、これはどういうテーマを追求した作品なのですか?

これらの作品では二人の人間の間で、とても激しくて変わった接触がもたれます。その接触は、権力と支配、喜びと苦しみ、思いやり、親しみ、攻撃などと解釈することができます。肉体が接触する一瞬を読んだ激しくて衝突しあう様々な解釈、それらをこの作品は表しています。

こちらの作品ではヌードのモデルはメラニーさん自身ですよね。肌を引っ張っている服を着た人達は「The L.A. Pictures」の時と同じように通行人ですか?

彼らは私の知人で、カメラに映る後ろ姿を基準に選びました。具体的に言うと、背中を写した時に面白く見えながらも、できるだけ中性的で個性が目立たない人を選びました。

この作品ではどういう動機からモデルになろうと思われたのですか?

私がモデルを務めたのは、まったくの必然性からでした。明らかに二分化されている権力と支配の問題に割り込み、さらにその関係を込み入ったものするためには、肌を引っ張られる人間が私でなければいけませんでした。さもなければこの作品は、行動する側とされる側という構図として安易に受け取られてしまったことでしょう。肌を引っ張られている人間がアーティストであると分かって初めて、鑑賞者はこの状況を仕組んだのが私であって、支配しているのが実は私だということが分かるのです。こうすることによって、二者の間の人間関係についてや、私の作品の中心を占める信頼と尊敬という概念について、更に問題を投げかけることができるのです。

この作品では何を表現しようとされたのですか?

このシリーズは私たちが境界線をどこに、どのように定めているのかという疑問から生れれました。つまり言い換えると、私がどこで終わって周りの世界がどこから始まるのかということです。肌は私の多くの作品にとって重要な要素です。それは、身体の中身を保ち外の世界を遮断するという点で、肌が境界線の役割を果たしているからなのですが、その役割はとても複雑です。私は体に沿って走るこの不思議で複雑な境界線に焦点をあてたイメージを作りたかったのです。周囲のスペースに向かって肌を引っ張ってみて、境界線を一時的に広げることによって、私達の肉体に対する理解がどう変わるのか、周囲のスペースにどんな変化が起こるのかということを探ってみたかったのです。


Melanie Manchot, Kenka Kisses James Baldwin (L. A. Pictures), 1999
Courtesy: Rhodes + Mann Gallery, London

この作品の他にも、ロスの路上でカップルにキスをしてもらってそれを写した「The L.A. Pictures」など、メラニーさんの写真には被写体の参加を取り入れたパフォーマンス的な作品が多いですよね。

そうですね。作品の多くがパフォーマンスの要素を含んでいて、実際、ますますその傾向が強くなっています。私にとってこのパフォーマンスの要素は、作品にそれ自身を超えた何かを示させる方法を考案するために重要です。つまり言い換えると、ただ純粋に美的な物として終わる作品ではなくて、より広い概念的なアプローチが込められた作品に仕上げるためにこの要素が重要になってくるのです。

最近はどういう方面に関心がありますか?

写真とヴィデオへのアプローチとして、パフォーマンス的な要素をさらに深く追求していますし、どういったサウンドがヴィジュアル作品と併用できるかという点についても実験しています。さらにその枠内で私が目指していることの一つが、どうすれば被写体をもっと活動的にできて、カメラをどう使えばより共同的で参加を促す状況を作れるのかという点です。写真やヴィデオを使って私が仕組んだ設定が、被写体が自らを見せるにあたってどう使われるのかという点にも関心があります。一時的なステージ、つまり、そこで被写体が鑑賞者に対して自分を演出したり話したりする場を、カメラがどこまで作れるのかという点に興味があるのです。言葉を通じての接触がより重要に、ヴィデオが制作のより中心を占めるようになってきています。

今後の展示予定について教えて下さい。

たぶん来年の中ごろだと思いますが、新作が完成したらロンドンのローズ+マン・ギャラリー(Rhodes + Mann Gallery)と、おそらく国内外のほかのギャラリーでも展示することになります。それまではドイツ、ロシア、アメリカなどのグループ展に色々と参加することになっています。

取材時期:2003年8月   取材、翻訳:伊東豊子
© Toyoko Ito, August, 2003

"Melanie Manchot"
03/07/11 - 03/08/09
Rhodes + Mann Gallery

 


Top

Exhibitions

Home


fogless.net
e-mail: editor@fogless.net
This site has been designed and managed by Toyoko Ito (Toko) copy; 2000-2010 All Rights Reserved
このサイトは伊東豊子(トコ)によってデザイン及び管理・運営されています。本
サイト内で用いられているコンテンツ(文章・画像など)を無断で複製・転載・転用することはできません。